上水公園の名称は公園の少し北を東西に流れる玉川上水に市民の愛着が強く親しまれているところから、 上水公園と名付けられました。
小金井堤のサクラは,元文2年(1737年)頃、八代将軍徳川吉宗の時代、幕府の命により川崎 平右衛門定孝が、 大和(奈良県)の吉野や常陸(茨城県)の桜川など各地の桜の名所から種苗 を取り寄せ、小金井橋を中心に 玉川上水両岸の®キロメートルにわたり植えたものです。 これは、新田の賑わいのためのほか、桜の根が土手 の崩壊を防ぎ、花びらなどが水の毒を消すなどの 理由によるものといわれています。
明治16年明治天皇が小金井堤を観桜においでになられた事を記念して植樹した松と行幸された 記念に建て られた石碑です。五日市街道玉川上水沿いにあります。
総ケヤキ造りで、本柱の前後に二本ずつの控柱を伴う四脚門です。 鎌倉時代の禅宗様の建築様式が取り入れられたこの山門は,本堂と同じ天明3年(1783)頃、鈴木 新田の大工の 家に寄寓していた渡リ大工が作ったものといわれています。 本柱上の枠組み、破風流れの屋根構え、カヤ聾は、近隣には類例のない珍しい貴重な建物と言われています。 現在はわずかにその痕跡をうかがうことができるだけですが、天井板には、黒雲を割って天翔ける龍の絵が描かれていました。
玉川上水沿いに位置した、面積約80ヘクタール(日比谷公園の5倍、上野恩賜公園の!.5倍)の広大な公園です。 この公園は広々とした草地、それを取り巻く雑木林、桜の園、わんぱく山、弓道場、SL(C57)展示、16面の テニスコート と内容豊かな公園です。 この公園の前身は、昭和!5年の紀元2600年記念事業で計画された小金井大緑地です。戦後、東宮仮御所に使用され、 また農地解放により4割を失いましたが、29年に都市公園として開園されました。
東京の歴史をふりかえると、江戸の昔から火災・水災・震災•戦災などにより、多くの貴重な歴史的建造物が 失われてきました。現在もまた、社会"経済の変動に伴って、こうした文化撮産が失われつつあります。 東京都は1993年(平成5)、東京都江戸東京博物館の分館として、敷地面積約7haを擁する「江戸東京たてもの園」 を開設しました。当園では、現地保存が不可能な文化的価値の高い歴史的建造物を移築し、復元•保存・展示すると ともに、貴重な文化遺産として次代に継承することを目指しています。
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